桜舞い散る春の頃、私たちは終わりました。
大学3年の夏頃からいくつかの、何度かの季節を共に過ごし、二人で過ごす4度目の夏を前に−−−−−。











 *























大学から徒歩10分もかからない自宅に帰りついたのは夜の10時を回ってからだった。修士に上がってからどんどん研究実験が忙しくなりなかなか陽が落ちる前に自宅に戻ってこれない。ベランダからオレンジ色の眩しい夕日を最後に眺めたのはいつだっただろう。もう随分と前のことのような気がする。
鍵を差し込みドアを開けると真っ暗な玄関が迎えてくれた。


ああ、一人だ。


改めてそう思った。



****



順調に行けばもうすぐ付き合って4年になるはずだったイザと別れたのはほんの2ヶ月前のこと。修士が学部よりも忙しいのは明白で、加えてイザも授業やら実験やらバイトやらで少しずつ2人でいる時間が取れなくなっていった。以前ならば必ず2人で食べていた食事も、お互い独りきりで済ませることが多くなりそんな中でお互いが、お互いに対する想いの丈に違和感を覚え始めていたのだろう。
好きか嫌いか問われれば、間違いなく好きであると言える。しかしそれがはたして恋愛感情なのかと問われれば言葉はなくなる。わからない。大切なのには変わりはない筈なのに胸に抱く想いは惚れた腫れたの類ではなくなっている気がした。そんな状況だったから、どちらともなく別れ話が持ち上がっても至って冷静でいられた。


『お互い頑張ろうな』


そう言った少し無理やりな笑顔に向かって


『うん』


とだけ返すと彼は私の部屋を出て行った。合鍵は、机の上にそっと置かれた。



****



パチリと部屋の灯りを付けると目の前に広がったのは無音でただっ広い自分の部屋。 大学入学当初は当然見慣れた光景だったのに、いつの間にかイザが部屋にいることが当たり前で「おかえり」と迎えてくれるのが日常になっていたから独りきりの部屋はなんだかひどく無機質で冷たい印象を受けた。
しかし、別れた直後こそ寂しくて夜にこっそり布団にくるまって泣いたりもしたけれど最近は益々忙しくなった勉学のおかげでセンチになる時間も余裕も無くなっていた。



部屋に足を踏み入れるとベッドの上やら椅子の背もたれに無造作に脱ぎ散らかされた洋服たちが目に入り知らず知らずうんざりしたようなため息がこぼれた。
しっかりしなきゃ。
そう自分に言い聞かせ、脱ぎ散らかした洋服をすべて引っ掴んでそのまま脱衣所へ向かった。それらを洗濯機に放り込み、そのまま着ていた洋服もすべて脱いで洗濯機へぽいと投げ入れた。洗剤をいれスイッチを押し、洗濯機が音を立てて正常に作動したのを確認して夜は遅いがまぁ大丈夫だろう、一人頷いてから私はシャワーを浴びるため浴室へ入った。







風呂から上がってとりあえず冷蔵庫の中から缶ビールを取り出した。座椅子に腰掛、タブを持ち上げるとプシュッといい音がなり缶が口を開いた。
とくとくとく、とビールを掻き込むようにして飲み、ふぅ、と一息ついたところでまた目の前にいつかの情景が浮かんできた。


向かいに座るイザとこうやって何度もお酒飲んだなぁ、と一人ごちる。彼はとてもお酒に弱く、それこそ缶ビール1,2本で顔が赤くなりふわふわとした状態になるのを私は可愛いと思っていた。飲みながら、私がお酒に強いことをいつも不満げに責める彼はやはり年下なのだと思わせる幼さがあった。普段はお互い年の差など気にせず、向こうも私に敬語なんて使わない砕けた関係であったがこういうときだけは否応なく年の差を感じさせられたが一向に不快ではなかった。

そんな彼は弱いくせにお酒が好きで、併せて煙草も好んでいた。一日に4〜5本は吸っていたように思う。私は煙草を吸わなかったし煙たい匂いが身体にまとわり付くのも嫌いだったから部屋では絶対に吸わないようにきつく言っていた。だから、彼が私の部屋で煙草を吸うときは必ずベランダに出て窓を閉めて吸っていた。どうしてもというのでベランダでなら、と私自身が許したのだ。


「あんなのの、どこが美味しいのかしら?」


以前、煙草は美味しいのかと問うた私に彼は申し訳なさそうに苦笑し、「美味しいよ」とだけ答えた。



****



『嫌いなのよね、タバコ』

『ごめんな』

『謝るくらいなら吸わないでよ』

『それは無理だ』


焦ったように彼はそう言った。


『部屋では吸わないからさ、許してよ』


困ったように両手を合わせて頼み込んでくる彼にダメ、なんて言えなかった。結局自分はイザに弱いのだと、もう嫌というほど自覚していたし吸えない期間が長引くと少々不機嫌になることも長い付き合いの中でわかっていたから。あきらめた様に頷いた私に彼はひどく安心したような顔になり、そうして満面の笑みを見せた。


『煙草を吸った後はキスしないでよね』

『ど、どうして?』

『口の中に煙草の味が広がるの。あれ、全然美味しくないもの』

『ごめん』

『口を濯いでからにしてね』

『ワカリマシタ・・・』


うな垂れるイザにフフッと笑みをこぼし、


『煙草ってそんなに美味しいの?』


と問えば、


『美味しいよ』


彼は申し訳なさそうに苦笑した。



****



ボーっと思い出の世界に旅立っていた私を現実世界へ呼び戻したのは先ほどの洗濯機だった。ピーッピーッという音が洗濯の終了を告げる。のんびりと立ち上がり、脱衣所へ向かい洗い立ての洋服たちを洗濯籠に入れてベランダへと向かった。朝は時間がないのでこうして夜のうちに洗濯をして干してしまうのがミレーユの癖であった。あまり賛成されないその癖だが、自分は特に気にならないのでこのスタイルを変えようとは思わなかった。

外に出るともう春だとは言ってもやはり夜風はまだまだ冷え込んでいた。しかし風呂から上がったばかりで火照る身体には丁度いいくらいの冷たさでしばらくフゥッと息をしながら涼んだ。私が住んでいるアパートは付近では結構新築のそれであり、階層もわりと高い。私はその10階建てアパートの8階に住んでいた。田舎の大学なので周りにビルなどは一切なく夜景はお世辞にも美しいとはいえないがそれでも民家や住宅の明かりがポツポツと見え、その景色を私はなかなか気に入っていた。


イザと二人で並んで眺めたこともあったなぁ。


今日はいやに彼のことを思い出すなぁと考えながら洗濯物を干しているとベランダの隅のほうにひっそりと置いてある円形の器が目に入った。暗がりではっきりとはわからなかったがどうやらそれは銀色の物らしい。


ああ。


瞬間、思い至った。
あれはイザの、灰皿だ。


ベランダは私の家で唯一彼が煙草を吸える場所だったからいつの間にか彼自身が持ち込んでいたのだ。
外に放置してあるそれは、部屋の中に持ち帰るのが気が引けたのかただ単に面倒だったのかは定かではないがいつ見ても、それこそ雨の日も風の日もベランダの隅に置いてあったのが思い出される。

少しかがんで覗き込むと中には数本の吸い終わりの煙草が各々いろんな方向に転がされていた。どうして今まで気が付かなかったのか自分でも不思議だった。





部屋を出るとき彼は私物はすべて持ち帰った。ほとんど同棲に近い状態だったため彼の着替えや教科書やらが私の部屋にはたくさんあり私の部屋を圧迫する一因にもなっていたのだが、いざ何も無くなるとなんともいえない虚無感が胸を襲ったのを覚えている。彼の洋服が置いてあった場所はすっきりさっぱりしてしまい、同時に自分の胸にポッカリ穴が開いたようにさえ感じられた。まるでイザという存在が初めから無かったかのように彼の気配は私の部屋から消えていったのだ。



しばらくジッと煙草のたまった灰皿を見つめていたが、どうすることも出来ずについに空になった洗濯籠を腕に抱え部屋へと戻った。


灰皿を、片付けることがどうしても出来なかった。


崩れるようにベッドに倒れ込んだ私はそのまま顔を枕に押し付けた。部屋から一切無くなってしまった彼の気配を思わぬ形で見付けてしまい動揺した。


気付いてしまった。
ああ、どうしよう


ひどく悲しい気持ちに痛む胸。ああ洗濯物なんて干すんじゃなかった。洗濯なんてするんじゃなかった。涙が出そうになるのを懸命にこらえ必死に何か別のことを考えようと頭の中を巡らせた。

と、突然部屋に響いた機械的な電子音に肩がビクリと震える。音のなったほうを見やると、携帯がメールの受信を知らせるそれだった。一昔前のドラマの主題歌のその着メロはオルゴール調で、流行がとうに過ぎ去っても私は変わらず好きだった。大好きなその曲は、唯一人のための着信音に設定していた。別れた後も、面倒くさいという理由から一切変更などをしなかった。面倒だからなんだと、そう思い込んでいた。


だけれど。


もう気が付いてしまった。


未だに彼のことを思い出すのも。

着信音を変更できないのも。

灰皿の煙草を捨てられなかったのも。


全部、全部・・・・。



ベッドから起き上がり先程のメールを見る。




件名:夜遅くごめん

本文:話したいことがあるんだけど。




パチン
携帯を閉じ、急いでクローゼットから取り出した薄手のカーディガンを羽織り鍵もかけずに部屋を飛び出した。
伝えたい想いがあった。









【END】



2010.4.1
あれーおかしいな別れて終わりのお話の予定だったのに。いっそのことそっちバージョンも書こうかな・・・。ちなみに着信音はチャ○アスのSAY/YESとかK○Nの愛は/勝つなんていいんでないでしょうか。



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