始 ま り は 、 夏













死にそうな量の期末テストをなんとかどうにか片付けて、漸く夏休みがやってきた。


なのに。


なのに。



私は今、大学にいる。
正確には、仮配属された研究室で与えられた課題研究のために実験室にいるのだ。
私はまだ3年で研究室も仮配属という形なので研究テーマを自分で決めることができない。教授が手掛けるいくつかの研究テーマのうち、簡単な部分のお手伝いをするのである。まだまだ知識も技術も全く当てにならない3年に与えられるものと言えば当然、簡単な手順だが相当の時間を要する実験や単純作業の繰り返しを必要とする実験が主である。まあつまり、要するに、体力勝負の実験は若い学生に押しつけておこうということだ。
けれども仕方がない。これをこなさないと単位がもらえないのだから。


「・・・・・暑い」


実験室には冷房がない。繊細な実験を行う際には微々たる温度変化も結果に影響するのだという理由から。だから夏は地獄だよ?そう言って苦笑いをした1つ上の先輩の言葉が脳裏に蘇る。


ああだめ、無理。
暑すぎる。


首筋を伝う汗に我慢できず、一先ず研究室に戻って涼もう、部屋を出ようと一歩踏み出した瞬間に声がかかった。


「先輩」


ドアの前には見知った青年が立っていた。
声の主はピタリとしたTシャツに細身のジーンズというラフな格好だがどこかお洒落で、でもまだ幼さの残る顔が容姿のアンバランスさを滲みださせている。まあ、そのアンバランスが個性として一種の魅力として周囲に捉えられているのだけど。


「イザ。こんなところまでどうしたの?」


久しぶりに、思いもかけないところに現われた彼に驚いた。


「先輩」


もう一度私を呼んだその声は、表情は、いつになく真剣で緊張の色を帯びている。
瞬間、


あ、これは


と思った。

自慢ではないし、まして過信しているわけでもないが、こういった場面は何度も経験してきた。だから彼がなんのためにわざわざここへ来たのか、なんとなくわかってしまった。
こういう場面になったとき、私に相対する彼らは皆同じ表情になる。
ピンと張った糸が、切れそうになるギリギリのところで耐えているようだと私は思う。そうして、その張りつめた表情のまま口を開き、予想通りの言葉を投げるのだ。今のイザも彼らと同じ表情をしている。
私は彼から発せられるであろう次の言葉を待った。


「あの・・・」

「なあに?」

「・・・・・今日、暑いっスね」

「・・・・そうね」


予想に反して投げかけられたのは当たり障りのない言葉。
わざわざ学部も学科も学年も違うのにこの実験室へ足を運んでおいてこんな会話が目的ではなかろうに。
渋い顔をしながら俯くイザにクスリと笑みが漏れる。

可愛い。

最初から彼はこうだったのだ。


素直で、思っていることがそのまま顔に出るところがわかりやすくて好い。
白い歯を見せて何の曇りもなく笑うその顔は、きっととても愛されて大切に育ったのであろう、太陽のように明るく周囲の人間を魅了してやまない。
その笑顔で励まされればそれだけで頑張れるような。
その笑顔で許されればそれだけで泣いてしまいそうな。

笑顔一つで人の心をいとも容易く満たすことのできるのがイザだった。

そうして私もその例に漏れず彼に惹かれてやまない人間の一人なのである。
今まで何人もの男(ヒト)と付き合ってきてそれなりに経験だってあるけれど、いつだって望まれて横に立ってばかりいた。それが、イザに対してだけは違った。彼の横にありたい。その笑顔の傍にありたい。彼はそう、自分が望んだ初めての男(ヒト)だった。

そうして、俯くイザを改めて見やった。


私から言ってみても、いいかな?
いいよね?
だって好きだし


思い、口を開きかけたとき


「ミレーユ、ちょっと教授が呼んでる。至急行って」


研究室の先輩が実験室を覗き込み一声かけて去って行った。
ああ、せっかく言おうとしたのに。なんとなく士気をそがれてがっかりする。はぁ、小さくこぼし取りあえず先に教授のところへ行こうと歩き出した。


「ごめん、ちょっと待ってて」


言いながらイザの横を通り過ぎた瞬間、グイと腕を掴まれた。
振り向かされるようにして腕を引かれ、至近距離でイザと目が合い少しだけ動揺した。真っ直ぐに私を見つめてくるその瞳には先ほどの迷いはもうなくなっていた。ふわりと風に乗ってかすかに香るのは私の嫌いな煙草の匂い。けれどもその私の嫌いな香りは彼の香り。だけれど不思議と気にならなかった。いっそ心地いなんて考えてしまうのはこの部屋の茹で上がる様な暑さのせいで頭が正常に働いていないからかしら?
ぐるぐるとひとり思考を巡らせていると目の前の彼が口が開いた。そうして、ゆっくりと、


「好きだ」


告げられた後、あ、という顔をしてすぐさま付け足された


「です」


という言葉があまりに間が抜けていて思わず吹き出してしまった。


「ちょ、何よ、好きだ、です、って・・・」

「えっやっだって敬語・・・てか先輩笑いすぎ!!ひどっ!!!」

「だって」

「あーもう返して俺の勇気・・・・」


へなへなとしゃがみこむイザに習って私も目線を彼に合わせるようにしてしゃがみこんだ。それでも、その態度に彼の精一杯が伝わってきた気がしてついつい嬉しくなってしまう。
ああもう、どうしてそんなに可愛いの。
居ても立ってもいられなくなり下がった眉の上、汗に滲んだそのおでこにチュッと唇を押しつけた。


「っっっ!!!!!!」


一気に真っ赤になるイザに意地悪く笑ってあげると、顔を赤らめたままムッとした顔で睨まれた。


「・・・いいんですか?」

「なにが?」

「それが先輩の答えだって思って、いいんですか?」

「・・・お好きなように」


言った瞬間、重ねられた唇からは、今度こそしっかりとあの忌々しい煙草の煙の味がした。







2010.4.9
1,イザに先輩と呼ばせてみたかった。
2,イザ情けない・・・いつかリベンジを・・・
3,好きになる過程はまた別の機会にでも
4,ミレーユは常に余裕であってほしい